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カテゴリ:旅( 66 )

イタリア紀行(55)

知らなかった。ローマからタルクィニア行きのバスがあるなんて・・・。F.S.でタルクィニア近くの小さな駅に降り立つ。周りには住宅とバールしかない。駅で降りたお客さんもチェントロに向かうバスを待っていた。バスに乗り丘の頂上を目指すが、それまでの道のりにはただだだっ広い野原があるだけだ。頂上付近は案外広かった。バス停近くのインフォメーションで町の地図と案内誌をゲットする。

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そうここが、エトルスキのへそである。古代にその名をとどろかせていた町である。早速、考古学博物館に入る。陶器類を見る。あの有名な「ボッコリス」の壺が合った。エジプトの象形文字からこの壺の制作年代が分かる稀有の陶器である。コリントス様式の陶器や黒像式、赤像式の陶器。印象深かったのは、壁画の復元展示が館内にあったことである。色彩が美しい。背の高い紳士の係員が、話しかけてくる。私が日本人と分かると、いい顔になった。話によると、あの東大のシュタイングレーバー先生の友人とのことで、日本の研究者と仕事をしたことがあるらしかった。話が弾み、夕方一緒に呑むことになった。博物館入り口の中庭には、沢山の石棺が陳列してあった。どれも一級品である。帰りには、他の係りの人とも話が出来、有意義な来訪となった。
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「死の都(ネクロポリス)」へ向かう。バスが頂を下りて行き、背の高い木が等間隔に植えられた一本道を行く。平地にさしかかったところ一帯の野原に発掘地域があり、墓がある。地域の入り口では、係りの人が笑顔で出迎えてくれた。「よく来たね。存分に見ていってね」笑顔である。挨拶を済ませ、早速墓を見る。地表がこんもりと盛り上がり、野球のマウンドのようになっている部分に墳内部に通じる階段があり、この階段を覆うように屋根がついている。この決まった外観の場所がかなりの数、一帯に点在していた。ほとんどの墓は、内部が室温、湿度の管理が自動で行われていて、遮蔽などの技術には日本の技術が導入されている。その証拠に、墓の入り口には、日本のある企業の名前を冠したプレートが掲げてあった。内部の空間は外部をガラスの板で区切り、徹底した環境管理がなされている。しかし、これでは内部を写真で撮るときにガラスが邪魔になる。それでも何枚かの撮影を試みる。有名な饗宴の場面の壁画はとても美しかった。この墓の向こうにはまだ手付かずの野原が広がっている。そもそもこのような墓は、軍事偵察用の航空機からの写真で発見されてきた歴史がある。上空からは、地下に何かあるとその上に自生する植物の植生が模様としてまた色の違いとして現れる。これを手がかりに、墓が調査された。墓は、一気に掘らない。日本でもお馴染みのファイバースコープが利用される前には、イタリアでは、墓に穴を開け、潜望鏡のごとく筒を中に差込、その先にカメラを取り付け内部を調査撮影してから発掘の判断が下されてきた。色々工夫があるものである。
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最後に気になっていた、「鞭打ちの墓」と「悪魔の墓」を見学した。「鞭打ちの墓」は、人類史上初めてのSMの絵がある。研究者は、バッカス祭のような祭りの儀式で行われたであろうとしているが、明らかにSMという性描写残されている。「悪魔の墓」は公開されていなかったが、中を見たそうにしていると、係りの人が飛んできて入り口を空けてくれた。特別な計らいである。感謝。壁画には何体かの毒々しい肌色をした悪魔が描かれ、墓の構造は複雑なものになっていた。

全て、見学し終わると夕闇が迫っていた。入り口で丁寧にお礼を述べ、バスでチェントロに戻った。予約していたホテルにチェックインして、近くのピッツェリーアでピッツァを食べると、かの紳士と約束していたバーに向かった。既に彼は酒を飲んでいたが、私もグラッパを注文して色々話し始めた。一息つくと、彼は、家に来い、というので訪れることにした。小さな家だったが、小奇麗で居心地が良かった。暫く酒を酌み交わし話をしていると、家に泊まれ、と言い出した。ホテルをとっているので丁重にお断りしたが、こんなことならホテルなど泊まらずに済んだのに、と少し後悔した。ホテルに着くともう深夜である。結局その日の食事は、ピッツァだけだったが、何かとても清々しい幸福感に包まれていた。

昔のエトルスキはこんな人たちだったんだろうか・・・。優しさを感じた旅だった。

野人
by yajingayuku | 2009-10-07 20:44 |

イタリア紀行(54)

念願のエトルスキ都市探訪である。チェルヴェテリ、古代のカエレ。ローマからはバスで訪れることが出来る。午前中に到着し、ドゥオーモにおまいりしてから、考古学博物館に入る。ほとんどの遺物がローマに、特に「ヴィッラ・ジューリア博物館」に所蔵されているために、ここにあるのはほんの少しだけである。写真撮影はかたく禁じられ、印象だけを得て外に出る。

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目指すは、「死の都(ネクロポリス)」である。チェントロのある小高い丘から、ふもとの少し離れた所に広がり、この町の観光の目玉である。入り口では係員が笑顔で出迎えてくれた。入り口右の「聖なる道」を歩くと、右手に日本のお墓のような小さな墓石が立ち並ぶ一帯がある。花が添えられ、古代の墓なのに現代のお墓のように設えられている。進んでゆくと、日本の古墳のように綺麗に成形された円形の墓(トゥムルス)が何基も点在している。ドーム状の屋根には植物が生え、そこが地表になっていたことをうかがわせた。「聖なる道」は円形の墓を家にたとえると路地のように張り巡らされている。墓の入り口はその道より少し上に開いていて、中を見学できるようになっていた。内部は、岩を切り出した寝台状の台が残されており、研究者によると、これには男女の区別があり、恐らく祖先崇拝が行われていたと推察される。
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「浮彫りの墓」は、内部装飾が美しく、しばらく時間を忘れさせてくれた。柱や壁面に掘り出された陶器や武具などの彫刻装飾には朱色などの彩色が施されている。恐らくは、この墓の被葬者はエトルスキ上流階級の権力者で当時では有名な人物であったであろう。
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地元の人間だだという家族と話が出来た。別れ際、父親が子供達に、「実際に見るというのが大切なのだよ。我々の誇りを見てご覧・・・」と墓を指差していた。隈なく見て周り、日が暮れそうになったので、慌ててバスでまたチェントロに戻り、またバスでローマまで帰った。バスに揺られながら、心地よい疲労が睡眠を誘発する。はっ、と目覚めるとよだれを流していた。幸せな一日だった。次は、いよいよタルクィニアだ・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-10-03 20:02 |

イタリア紀行(53)

10年ぶりの再会である。浪人生の頃からの付き合いのあるY君がイタリアにやってきた。仕事のついでということもあるが、同じ大学学部の同期生でもあり、あれから10年が経っていた。ローマでオペラ鑑賞して、その日はホテルで遅くまで飲んで眠った。次の日、ペルージアに連れて行く。先ずは、予約しておいたホテルでチェックインを済ませて、私の部屋に連れて行った。食材等は買い込んでいたので、夕食は久々にトンカツ定食にした。「イタリアに来て、トンカツを食うとは思わなかった」と一言。骨付きの豚肉は大そう美味しかったらしく、貪っていた。ワカメの味噌汁とサラダを付けて日本風にした。オペラ鑑賞の記事を書くのにデスクとコンピューターを提供する。夜遅くまで仕事が続いた。

翌朝、彼を迎えに行き、駅までバスに乗り、電車でともにフィレンツェを目指す。到着するなり、ウフィッツィ美術館に連れて行く。一通り、見て、コンサート前にホテルにチェックインして、夕食をとる。お洒落な内装のレストランに入り、私はフィレンツェ風ビーフステーキを注文した。相方が何を注文したか憶えていないが、「そっちの方がいいなぁ~」と恨めしそうに飯を食っていた。今回の目玉は、ペーター・シュライアー指揮・歌による、バッハの「ヨハネの受難曲」である。演奏が始まると同時にそれは現れた。鳥肌である。ゾクゾクと全身に電気が走り、肌が立つ。ペーター・シュライアーが歌いはじめると、さらに勢いを増した。これは凄い演奏だった。彼が訴えかけるような激しい歌いっぷりは、恐らくもう聴けないだろう。演奏会が終わると、まだ全身に余韻が残る。外に出て、アルノ川沿いの道を歩き始めると、涙がこぼれた。1年前に若くして逝去したK君の顔が瞼に浮かんだ。「まだ泣けるだけいいぞ・・・」2人とも暫く黙ったままホテルまで歩いて行く。途中、どう見ても風景が京都の鴨川辺りに似ていたので、二人とも笑い転げた。

翌日、フィレンツェ空港まで見送りに行く。次の訪問先は、スイスである。その後、取材で、あの音楽家、アシュケナージに会いに行くことになっていた。久々の再会は、かの地イタリアでなされた。素晴らしい思い出をともなって・・・。ありがとう・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-10-01 20:28 |

イタリア紀行(52)

朝早起きして、ポンペイを南下して、古代ギリシアの植民地、パエストゥム(地元の人は、ペストゥムと呼ぶ)を訪れた。駅から、発掘地域に向かうが、町は広大な規模の壁に取り囲まれていた。中に入って、海沿いに遺跡がある。先ずは、敷地内にある考古学博物館に入る。入り口には、神殿の装飾品が飾られ、遺物が効果的に展示されているのに見とれた。壁画の部屋は、有意義だった。いかにも南の地方らしい明るい色使いだ。有名な饗宴の場面は、男女同席を禁じたギリシアの社会を反映していて、男同士の宴会となっている。お察しの通り、ギリシアでは男色は公然のことだったのである。コッタボス(水滴を的めがけて投げる遊び)に興じる場面もある。書物に伝わるように、この遊びで勝利したものは何でも出来るらしく、その願いのほとんどが男を選ぶというものだったらしい。そのほかにも気になる絵は沢山あったが、日本で知り得た「トゥッファトーレ(飛び込む者)」の絵はことの他印象深かった。今も昔も、断崖から人は海に飛び込んでいたらしい。研究者によれば、海はあの世だと説明しているが、その意味は定かではない。
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博物館を出て、広大な遺跡群を見て回る。お昼が過ぎているというのに飯も食わず水分だけを摂って動き回っている。「へールーン」といわれる英雄の墓も確認することが出来た。何と言っても圧巻は、幾つかの神殿跡である。中でも、「ポセイドン神殿」は保存状態もよく見ごたえのあるものだった。
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陽が傾き、帰途についたが、もうクタクタである。研究所にもどると、チンツィアがいて、「早く!」と叫ぶ。先輩とイタリア人のローマ史の先生との会食に遅れそうになる。先輩との約束の時間はとっくに過ぎてしまっている。それにしてもこのアポも、先輩は、私の予定を聞かずに勝手に約束したことであり、それだけでも怒りを感じていた。先生の御自宅に着くと、食事は終わっていて、直ぐに我々の食事となった。全然知らない先生だし、先輩が勝手にしたことなので全く気の乗らない感じで、だまっていた。クタクタであった。帰りに、リモンチェッロの小瓶を頂いたが、車の中では激しく先輩から怒られた。だまって、「すみません」しか言わなかった。翌朝、彼女は、「帰る」と一言言ってローマまで帰っていった。結局、チンツィアとローマまで帰ることになった。電車の中で彼女は私に同情し、慰めてくれたが、車窓から見える赤い大きな月を眺めるだけだった。やれやれ、一人の人間のために生涯の研究が駄目になることもあるのだな~とため息をつく。私はまだまだ未熟ということなのであろう。嫌な感じだけが残った。

(でもこれも過去のこと、今ではスッキリしてますよ・・・笑み)

野人
by yajingayuku | 2009-09-30 20:21 |

イタリア紀行(51)

カンパーニア、ふたたび。
時間ができたので、またポンペイの研究所を訪れた。今回は、日本の大学の大学院研究生とローマ史の先輩が日本の春休みを利用して滞在することになっていた。何を夕食に食べたか思い出せないが、食後、チンツィアがアメリカ人の友人を連れてきた。皆でのみに行こうと話すと、先輩が切れだした。「私はアメリカ人が大嫌いなの。いや、いやなの」皆、虚をつかれた感じで眼が点になってしまっていた。それにしても、幾ら体調が悪いとはいえ、本人を目の前にしてよく嫌いだといえるものだ。具合が悪ければローマで休んでいればいいのにと思うのだが・・・。

翌日、不機嫌な先輩を置いて、チンツィアにクーマを案内してもらった。「カンピ・フレグリ」と呼ばれるこの地域は、火山のあとが至る所に残された肥沃な場所で、古代では有名な場所であった。海を臨む丘の上にクーマの遺跡がある。このクーマの沖合いで紀元前5世紀に、エトルスキとギリシアは海戦を行い、結果、エトルスキは敗北する。エトルスキの後退がこれよりはじまったといわれている。遺跡には洞窟があり、内部には居住スペースも整えられ、何か神秘的な空間を作っていた。クーマといえば、古代には、シビュレーが住んでいたともいわれる聖なる場所でもある。

ポッツォリでチンツィアと別れ、研究生と2人で、ギリシアの遺跡を散策する。港の直ぐ傍の遺跡で、海と関係があると思われ、事実、海神の神殿が残っている。お腹がすいてきたので、近くのレストランに入る。憶えているのは、前菜にたのんだ2皿である。ひとつは、小さい烏賊の塩茹で。これだけでお腹が満たされそうな量を運んできた。美味い。シンプルで素材の味が素晴らしい。もうひとつは、「コッツェ(ムール貝)」。ワイン蒸しにされていて、これもまた絶品。偶然入ったとはいえ、この店は当たりである。
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食後、時間があるので、近くに温泉が湧いている場所があるというので立ち寄ることにした。ところが、地図の通り進むがなかなかたどり着かない。橋を越えたところで看板が出ていたので、進むとこれまた大通りに面した住宅街の方向に矢印が出ている。路地を入ってゆくと、「おっ!」と声が出る。開けた場所は、「地獄谷」そのものの光景だった。こんな所に居住しているとは・・・ガスなんか大丈夫なのか・・・・。広大な敷地には、日本のようにそこかしこから温泉が湧き、硫黄臭が鼻をつく。見学ルートを回って、帰りに売店で何枚か絵葉書を買った。
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ポッツォリの駅から電車に乗り、ポンペイまで帰ったが、到着すると、また先輩の虫の居所が悪くなっていた。風邪をこじらせているらしい。丁度休日ということもあり、薬屋は閉まっているので、研究所にある風邪薬で我慢してもらう。何だか雲行きが怪しくなってきた。嫌な予感がする・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-09-29 20:10 |

イタリア紀行(50)

ローマの北、エトルスキの町、バルバラーノ・ロマーノに向かう。ローマ史の先輩と2人でローマからバスで田舎道を走る。今回の訪問は、お世話になっていた、東大のシュタイングレーバー先生に会いに行くのが目的である。当時、東大はこの地を拠点に発掘活動を続けていて、先生もこの時期滞在されていた。町の端から端まで直ぐにたどり着けるような小さなチェントロの途中に研究所があった。到着するなり、先生は町の案内をしてくれた。先ず、研究所の裏の断崖の下にある小川に下りた。そしてまたもどり、次は高台から、渓谷のエトルスキ断崖墓を眺めた。断崖に無数の穴が開いていて、そこが一つ一つ墓になっている。断崖に沿って渓谷は穴だらけである。噂には聞いていたが、これほどまでとは思いもよらなかった。
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研究所に帰ると、先生の仲間が集まっていて、遅い昼食をとる。私は、手土産に、「トルタ・ディ・パスクア」という甘くない塩味のケーキをもってきた。これを先生に渡すと、お褒めの言葉を頂く。丁度復活祭も近いことだったので大喜びで歓迎してくれた。ついでに、音楽をと思いテープを取り出し音を出すと、先生が「これはいい」とまた褒めて頂いた。曲はメンデルスゾーンの「イタリア」」である。前菜とパスタを食べて、いよいよトルタ。このケーキは、クリスマスに食べる「パネットーネ」と形状は同じで、チーズが練りこまれているので、表面と切り口は黄色を帯びている。何でも発祥の地はペルージア地域だそうで、ペルージアでもチェントロのコープの隣のパン屋でないと手に入らないものらしい。ウンブリアの特産品らしい。私は留学期間中何度も食べたが、食べ飽きず、今でも舌に残るほど大好きな食べ物のひとつであった。

食後、もっと食べろと言うことで、1軒のレストランに連れて行かれた。先生は、店の人に合図して何やら暖炉で料理の準備をする。出てきた食材は、黒い色をした腸詰と野菜である。黒いのは、何でも豚の血だそうで、焼き上がりを頬張ると、口全体に濃厚な旨味が広がり、とても美味しい。これは絶品だった。イタリアで血入り腸詰を食べたのがこれで最初で最後だった。

食後、今度は先生達とエトルスキの遺跡を見に行く。山道を歩いて行くと、断崖にやはり穴を開けた墓が無数に確認される。暫く歩いて、丘の頂上に着くと、廃墟と化した小さな教会が現れた。ここはエトルスキの遺物が出てきた有名な場所だそうだ。教会横の崖下の穴の中に、ローマ時代の浴場があった。小さいが何だか日本の露天風呂に似ていた。

チェントロにもどり、バールで一息ついた。先生は、カンパリを注文されたが、炭酸とカンパリが交じり合わないでグラディエーションになっているのを指差して、「カンパリッザート(カンパリ化した)」と冗談を言っていた。先生に、研究のことを話すと、カークスの伝説に関しては考古学的に先ず編年順に論述したほうがいいとのことだった。これを守り、私は拙論を書き上げることが出来た。ありがたいことである。

日も暮れあたりも暗くなり、バス停で先生と別れることとなった。バスの中で、先輩は、「誰か先生一人についていた方がいいわ」と忠告してくれた。あれだけ日本で派閥の状況を見にしみて感じていた私は、ここでもまたか、という感じだった。人の支えは要るものの、余り気乗りしなかった。やれやれ・・・(でも今は解放されてスッキリしているのです・・・笑)

野人
by yajingayuku | 2009-09-27 22:52 |

イタリア紀行(49)

Sちゃんと2人でローマに出た。色々回ったが、夕方遅く、歴史上有名な「アナーニ事件」のアナーニを訪れた。小さな町で、小さなドゥオーモがある。教会におまいりしたときには外は暗くなり、隣の家の壁にかの有名な教皇ボニファティウス8世の肖像が飾られているのも判別がつかない様子だった。ここで彼は憤死した。教皇権の衰退を物語るエピソードである。

ローマにもどって、テルミニの安ホテルに1泊した。よく朝早く起きて、駅前からバスに乗り、聖地スビーアコを目指した。途中、ティヴォリを経由したが、時間の都合で立ち寄ることは出来なかった。到着して、ぶらついていると、教会でお葬式があったので覗いてみた。私は、ここで天井から吊らされた香炉球がゆらゆら揺らされ、お香の香りがあたりに漂っている光景をはじめて目の当たりにした。そこから少し離れた所にある修道院に行ったが、扉の上部にはあの中世の有名な標語、「祈り、働け」もはじめて見た。

さて、今回の目的、サン・ベネデットの洞窟に作られた修道院まで山道を登った。くねくね道を歩くと、途中にローマ時代の皇帝の別荘跡がひっそりと残されているのを見た。これがとても小さなものなので、あの大帝国の皇帝たるものがこれしきの別荘か、と少し拍子抜けした感じだった。やっと辿りつくとそれは断崖を利用した僧院であった。洞窟が迷路のように繋がりあいひとつの建物のようになっている。サン・べネデットが籠ったといわれる塔を見たり、階段の途中に描かれた、人間の体が腐敗する様子をじっくり鑑賞する。この腐敗の図は日本の「小野小町」の絵を想起させるものだ。この絵は、まだ日本の作家、特に渋澤龍彦のような作家が紹介していないものである。それだけに私の眼に新鮮な印象を与えた。

話は飛ぶが、修道院といえば、大家さんのふるさとウンベルティデのサン・サルヴァトーレ修道院も印象的だった。地下に作られた無数の列柱のある空間は忘れることが出来ない。修道院を見てから、われわれ大家さん家族一行は、養蜂家を訪ねた。「アピクルトゥーラ」とイタリア語で言う養蜂は日本のやり方とよく似ている。そこの小さな店では、蜂蜜や蝋燭が売られていて、私も栗の蜂蜜と彫刻された黄土色をした蜜蝋を購入した。このとき初めて、蜂蜜にはいろんな種類があることを知った。

日本に帰国してから、しばらくこの蜜蝋が部屋にあったが、今はもうない。何かのお祝いに使ってしまったが、その時に部屋の中には、甘い蜂蜜の香りが漂っていたのを憶えている。ミサのお香といい、蜂蜜の香りといい、記憶のどかに今も残されたままだ・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-09-26 20:52 |

イタリア紀行 (48)

パ~ン、パ~ン。
大晦日のペルージアの至る所で花火が炸裂する。日本の静かな大晦日とは事情が違う。バスに乗っていると、この爆弾花火が窓の直ぐ傍まで飛んできて炸裂することもあった。とても危険だ。テレビでこの爆弾花火で手を失った中学生ぐらいの少女が危険を訴えるCMを流しているのも年末ならではである。2度目の大晦日は静かにひとりで過した。クライマックスのカウントダウンでは何処からともなく数を数える声がする。静かに、日本の正月のことを思った。

元日は、友人とローマに行った。昼前に到着すると、バチカンのサン・ピエトロ教会ではミサが終わろうとしていた。でも元旦にここにおまいりできたのも幸運である。昼は、近くのレストランで食事した。前菜を何、メインを何と思い出せないが、ニョッキを食べたことだけは憶えている。イタリアに来て、これはというニョッキに出くわしたことがなかったが、ここのニョッキは歯ごたえといい、味といい申し分がなかった。絡んでいる白いソースがまたとても美味しい。ジャガイモと小麦粉から作られているシンプルなものだが、柔らかすぎても駄目だし、堅すぎても駄目だ。ころあいがとても難しいのである。
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これはという出会いがなかったといえば、ポレンタがそうである。ヴェネチア史を研究されている先生がよく、「あれは人間の食うものではない」と仰っていたことを思い出す。ペルージアで何度か買って、スープにしたり、煮込んだり、蒸したり、焼いたりして食べたが、シンプルにトマトソースとあわせて食べるとなかなか美味いものである。
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ローマから帰ってくると、S君と正月を過した。何とS君、実家から「くさや」を送ってもらっていた。これは最高の正月である。私の大好物である。バラ寿司やおひたしや日本酒などを用意して、精一杯の正月を満喫した。彼とはそれから何日間か共に飲み食いして、色んな話をした。政治からHな話まで、際限なくである。面白いことに、彼は、1匹の黒猫を飼っていた。イタリアーナ、メス猫である。何とS君、帰国する時この猫を日本につれて帰ってきた。その後、子供を生み、何世代かに増えているそうである。これも国際結婚か?・・・。

やはり、何処にいても日本人は日本人であることを痛感した思い出である。「くさや」という響きを聞くと今でも当時のことが頭を過ぎる。イタリアと「くさや」、なかなかいいコンビだと思うのだが・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-09-25 23:22 |

イタリア紀行 (47)

アンナは大家さんパオラの妹である。クリスマス当日、ペルージアの北の町、ウンベルティデにある彼女の実家を訪れた。よく霧がかかるという町は、クリスマスということもあり賑やかだ。到着すると、先ず町の代々お世話になっているという教会に行った。道すがら、円形の教会を覗いたり、町のシンボルでもある小さな城を見学した。城は一部美術館にもなっている。

家はとても狭い。アンナ夫婦と子供2人、それにお祖母ちゃんのノンナの5人が暮らす。居間では、ルーカと子供達がディズニーのアニメを観ている。女性陣は皆、昼食の準備をしている。我々は、他愛もなく政治の話をしていた。長いテーブルにはクリーム色の綺麗なクロスがかけられ、黄色の柄のある皿、ナイフにホーク、グラス、手拭が美しく並べらている。

食事をする前に、お祈りをする。お祈りの後、日本でもお祈りをするの、とアンナが聞いてくるので、日本では「頂きます」と言って手を合わせますと返答する。やって見せると、ルイージが真似をする。場が一層和んだ。ワインは、ウンブリア産のものだった。私がプレゼントしたワインも回された。前菜は、ブルスケッタ。パンの上に色々食材がトッピングされている。キノコと香菜の炒め物、小鰯の酢漬け、トマトとモッツァレッラの角切り、鶏のレバーペースト、モルタデッラのトッピング。このモルタデッラには私ことながらことの他思い入れがある。大きいものでは子供の胴体ぐらいもあるこのハムは、イタリアを代表するハムのひとつである。これにはよくお世話になった。ボンレスハムぐらいの塊を買ってきて、角切りに切り、トマトソースと煮詰め、パスタに絡めてよく食べたものである。
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パスタは、猪のラグーである。ここでアンナとノンナから、「食べろ、食べろ」の大攻勢がはじまった。山盛りを2杯食べたが、もう限界である。メインは、子羊のグリルであった。これも沢山食べたが、メインに行くまでにまだ何やら食べたが思い出せない。いよいよデザート。シュークリームのような生地の上にチョコレートが満遍なくコーティングされたもの、お馴染みのティラミスとパネットーネ。流石にパネットーネは見るだけでも嫌になり、ギブアップした。例のごとく、ルイージと腹をさすりながら「サトゥッロ(飽和状態)」と叫んでしまった。エスプレッソについで、日本から持ってきた焼酎を飲む。芋焼酎だったが皆平気だった。

食事の後は、ゲームである。イタリア式トランプ。一通り説明を聞くが最後までルールが理解できなかった。こうして家の中で家族と過ごすのがイタリアのクリスマスの姿らしい。夕方まで何かを見、何かを聞き、何かを味わった。

帰りの車の中で、ルイージが、感想を聞いてきた。「永遠の記憶」とポツリと答えると、いい笑顔になった。ただただ感謝である・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-09-24 20:33 |

イタリア紀行(46)

2回目のクリスマス・イブは、日本人の友達と過した。Sちゃん、Aちゃん、それにS君。夕方に、それぞれ食材やプレゼントを持ち寄り、Sちゃんのアパートに集合した。何を食べたか、何故か全然思い出せない。ただ、夜中の2時にサン・フランチェスコ修道院の教会へミサを見に行ったことだけは鮮明に覚えている。読経が聞こえるだけの静謐な空間に、これでもかとひとがギッシリ詰まっていた。ただ、読経だけが朗々と流れているだけである。信者でもない我々は、静かに立ち去った。

イブ・イブには、パンチェッタでスパゲティーを作って食べた。パンチェッタ、生ベーコンともいわれているが、ものによっては生食可能なものがあるが、大変美味なものである。これをホウレン草とともに、トマトソースで煮詰め、パスタに絡めるだけでとても美味しい。豚を感じる一品である。

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下宿先のアパートから坂を降りる途中に、祠があり、そこに電飾に飾られたマリア像が置かれていた。これを横目に見てさらに坂を下ってゆくと、「スーパー・シディス」というスーパーマーケットにいたる。ここは本当に頻繁に利用させてもらった。とりわけ豚肉の美味いことは保証する。パンチェッタをはじめ、腸詰などは本当に美味しかった。腸詰は、買って帰ってくると、先ず1つ分に小分けにして冷凍庫に入れる。これを後ほど1つ取り出し、皮を取り除き、包丁で小さく切る。凍っているので調理しやすい。パスタ料理には欠かさなかった。これだけは、ジャガイモ、人参、玉葱と同様、冷蔵庫に常備していた。

サラダはシンプルだった。ウイキョウ、人参などもろもろの野菜をボールに入れて、オリーブオイルと酢(ワインビネガー)をふり、塩コショウで味付けするだけだ。これだけで十分美味しい。

日常は単調だが、充実した食生活をおくれた。これだけで結構幸せを感じたものだった。今、日本で同じようにサラダを食べているが、イタリアにいたときとはまた違った幸せを感じる。王将ではないが、「人に食あり、食に人あり」である。食が人と人を結び付けてくれる。これは時と場所を選ばない。さて明日は何を食べようか・・・。

野人
by yajingayuku | 2009-09-23 20:13 |