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白いキャンバス

このブログの記事の内容がどうも個人の思い出話になりつつありますが、文筆家業の深い森に入り右往左往しているところです、ご容赦ください。

あれは、大学生3年の夏、神宮プールの観客席で日光浴をして見た青い空だった。青い空に飛行機雲の航跡が白い線となってゆく。東京の、夏の、昼の平凡な空だ。これを見たかった。
隣のプールからは全日本のシンクロのチームが練習する水のざわめきが聞こえてくる。近くを通る山手線の電車のガタゴトという音が耳に入ってくる。恋人同士がささやきあい、誰かが、オーイと叫ぶ。

その時の私は、将来の就職のことも、勉学のことも、コントラバスのことも、何も考えず、ただ日光浴がしたいために、1200円もする入場料を払ってプールに来た。空を見に来た。

プールに詰め掛けた人間も、同じように、空に正対して、または背負いつつ日光浴している。カバン、サングラス、飲料水、タオル、ウォークマン、財布、ロッカーの鍵、それに水着。あとは何もない。必要なものだけしかない。

あの時の私は何を求めていたのだろうか?逃げていたのか?詩人でもなったつもりなのか?女の肢体をチラ見したかったのか?引き締まった肉体を誇示したかったのか?
それはみなそうではなく、またみなそうである。

人は、何もしていないということがないと私は思う。ボーっとしていることも何かしていることだし、無駄だとは思わない。無駄は、必要が生まれたときにはじめて生まれる。その発生までの時間は、空白、生きた空白である。空白は、次に何かが描かれるためのキャンバスである。

一人老人が毎日ロッキングチェアーに座り、一日を過ごす。この状況を無駄だと即断できるのか?
死は必ずやって来る。その最後の一筆のために空白を置いておくというのも、考えようにはあり得はしないか?ひとそれぞれ。無駄かそうでないかは後付だ。生きる。そして死ぬ。これがあるだけなのである。

名句を・・・。

「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」
白いキャンバス_f0192635_20245179.jpg

「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

by yajingayuku | 2014-08-17 20:24 | 木陰のランプ