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土埃とビール

「喉が痛い!」

頭を上に向けると、抜けるような青空が、杉の大木の間から見える。地面には、大量の土埃、花粉、枯葉枯れ枝である。少しでもその辺を歩き回ろうとすれば、たちまちのうちに煙霧のように地面が埃で沸き立つ。

カリフォルニア州、ヨセミテ国立公園。サマーキャンプで二日間宿泊した。
メタセコイアの大木のトンネルを抜け、大自然の圧巻な光景に感動して、否応なしにキャンプ生活に期待が高まる。
シェラネバダ山脈の剥き出しの山肌を、岩場から眺め、世界最大級の滝の流れを眺めていると、この国の持つ巨大なエネルギーを感じてやまない。
流れる小川は、雪解け水で、真夏であっても、脳天に響くほど冷たい。

先輩二人と土埃の海の中に建つコテージに宿泊した。
中に入りものの5分もしないうちに、咳、くしゃみ、鼻水が酷くなった。鼻の中が埃で黒くなり、喉が極端に乾燥しているように感じられ、水分を補給しても何の効果もなかった。

宿泊が許可されている地域に、食事できる施設があり、そこでバイキングを食べる。
夜になっても喉の不快感は収まらない。
公園の宿泊地域の中にはシャトルバスが運行していて、こういうバスのシステムもこの時初めて目に見るものだった。

二階建てバスの二階は青天井で、埃っぽい大木の海の中をバスが抜けてゆくと、木々の間を通って涼しい風が顔に吹き付ける。
前に座っている、ヒッピーだという熊のように大柄なアメリカ人青年が、バドワイザーをすすめてくるので一本もらった。

「まだあるぜ」

気前よくビールをすすめてくる。よく見ると、ビールのケースがリュックに3段重ねしてくくりつけてあった。
ヒッピーでもこんなものはちゃんと確保しているのものなのかよくわからなかったが、豪快な旅をしているようであった。
ビールを飲んで喉は少し癒された。
ビールで酩酊したのはこの時が初めてである。

乾燥した大地に住む人々には、それにあった発想や生活の工夫というのがある。
湿潤な土地から来た人間は当然そこには適応しにくい。
もし、気候や風土が人間の思考や感情に大きく影響しているとすれば、私は乾燥した大地の思想や生活感情が理解できないでいたのかもしれない。永遠に乾燥した合衆国の人間が深いところでわからないかもしれないと思ったものである。

ビール、水。乾燥した大地に湿潤な大地から来た人間は、水分のありがたさを痛感する。
人間潤いが大切である・・・・精神的にも肉体的にも・・・・・。

喉を通るビールの潤いは、この青年の気持ちだった。
潤いは人の気持ちを満たしてくれる。

木立から、月が光を落している。
風、月、大木、そしてビール。笑い声とエンジン音が森の中をこだましていた・・・・ひと夏の思い出。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-31 05:54 | 木陰のランプ

酔う

書きます。
今少し感極まりました。

色々昔のことを思い出すうちに、自分の幸福も、友人の幸福もどうやったら成就できるかを思っています。
争いごとのない世界なんて考えられないけど、幸せにならないなんて世界も考えられません。

大学1年生の時の哲学の講義の課題図書がプレトンの「ソクラテスの弁明」という対話形式の書物だった。
「無知の知」という言葉だけでなく、「善く生きる」とは何か?という問いも織り込まれていた。

小難しく、そっぽを向かれる本だけど、こんな問いが2000年以上も前に提起されているのである。

大学の教授陣の中に、フィリピン人のルーベンス・アビト先生がいらした。
昼食となると、私は、安くて、腹がいっぱいになる学食に駆け込む。
お決まりの、アルデンテではない、伸びきった、脂っ濃いスパゲッティを平らげる。
満腹の私は、売店に行き、飲料水を買う。
それをもって、図書館で少し昼寝でもしようと思い、トボトボ構内を歩く。

すると、

「やあ、岩崎君」

とアビト先生が寄宿舎の前の日向で置石に腰かけて声をかけてこられた。

「パイプ、ですか?」

「これがないと生きてゆけない」

そういう会話が脳裏にこびりついている。

今、私もパイプがない自分が考えられなくなっている。アビト先生のいう意味が分かるような気がする。
中毒。そうかもしれない。
でも、それに比例して私にもたらしてくれる幸福感は代えがたいものである。

「善く生きる」とは、難しいことではないかもしれない。
ほんのちょつとの、つかの間の幸福感、しかも自分だけではない共有できるもの・・・・・。
そんな小さなことでもいいのではないか?そう思うのである。

人との交わりもこういうものかもしれない。
大国のメンツで駆け引きするのではなく、個人と個人の交わりから生じる何かではあるまいか?
些細な触れ合いが肝要ではないか?


小難しいことで、あいすみません。
こういうことが、今、ビール1本で発火してしまいました。

想像には酒は必要だが、創造には酒はご法度である。
でも、人間、酔わずに何をするものぞ?

あの詩人だ。ボードレール。

「常に、酔っていなくてはならない」
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-27 18:57 | 木陰のランプ

魂中の一火

掃除、洗濯、買い物、ゴミだし・・・・・。
一人暮らしをしていると何から何まで一人でこなさなくてはならない。当たり前のことですが・・・・・。

「まぁ~いいや~」

をやってしまうと、ほこりが溜り部屋がカオスとなり、洗濯物は山になり、ゴミだらけになる。
大学時代の友人が中野富士見町に下宿していたのだけれど、行ってみると、四畳半の部屋の畳には、エロ本、雑誌、書類が絨毯のように敷き詰められ、それを払いのけて私のスペースをつくり私を招き入れてくれた。

「この緑の、何や?」
洗っていない食器類、食べ残しのあるコンビニの袋が流しに放置されている中で、お抹茶のように美しい物体が1個小皿に乗っていた。

「それか?イチゴや」

えっ、これはカビか?何とまぁー美しいこと・・・・。
感心してしまった、かれの徹底した生活ぶりを・・・・。

でも、彼は、のちに音楽評論家になるが、透徹した見識と人間観察、そして正義感に磨かれていた。日常生活の徹底した偏りが偉大な人間を育ませていたのである。

彼は、いつも発火していた。
「熱い」人だった。
人には、どういう事情であれ、発火が必要である。時には生活を犠牲にしても・・・・。

大学の応援団とはよく飲んだが、彼らは意識的に自分をたきつける。自己完結型内燃機関をもっている。
でも、しんどいことやろうな~、といつも思う。
たまには、火を消してな~、とよく言ったものだ。

さてさて、こやつをたきつけるのは何でしますかな?
酒?女?博打?はたまたペンで?
どれでも発火できるのも人間です。
OH ! Vamos!!!!(「よっしゃ、行くで!!!!」)私は掛け声で・・・・・・・・・・・・・・ちと無理か・・・・やっぱ、音楽!!!
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-25 21:25 | 木陰のランプ

内気のパワー

兎に角、学校が嫌いな子だった。
京都八条の家が幼稚園の隣で、一度お遊戯会の練習をすっぽかして、家にこっそりと帰ったことがあった。運動場の塀などなく、我が家の家の側面がそのまま運動場と合体していたので、横手のドアからするりと家には入れてしますのである。

お遊戯は言うに及ばず、人前で何かすること、みんなと一緒に行動することがとても嫌だった。恥ずかしがり屋で、人見知りするタイプであった。
そんな性格を見抜いていたのか、こっそり帰ってきたときにも、母は叱らなかった。多分、叱れなかったのかもしれない。

このおひとりさまタイプの性格はそれ以降も続いた。
人と同じことをするのも嫌なタイプだった。

そんな私が、小学校6年生の時、運動会の応援団長になったのだから、世の中よくわからない。
ひょろっとして背が高く、声も上滑りしたように甲高く、落ち着きがない団長が、あらん限りの大声をあげて、フレー、フレーをやるのである。
今でもこんな旗振り役をよくやったと思う。

内向的な性格で、それが理由だとはいえないが、いじめにもあった。
学校が嫌で、行ってもいじめにあう状況だったが、卒業文集の「将来なりたいもの」という欄にはちゃんとダイバーと天文学者になりたいと書いていた。

この夢は果たされなかったが、似たようなことはしたつもりである。
水泳のコーチがそうだし、歴史の研究者がそうだと思っている。

人間100パーセントということがない。100パーセント力を出してしまうと余力はないので、後は消えてなくなるしかない。だから人間は70パーセントか80パーセントの力が最大限の出せる力なのである。ということは、半分の力でも生きる力には十分なのである。

幼稚園児、小学生、そして現在。50パーセントの力も出ていないかも・・・・。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-24 15:49 | 木陰のランプ

海の幸、といっても実に様々だ。
ウミウシを食べるところもあれば、ナマコだって最初食べたやつは凄いと言ったりする。

朝早く、叔父は私を連れて磯部へ行く。
三つの銛をつけた棒に、生の鯖の頭をひもで括り付ける。
それをそっと磯部の岩陰の入り口ぐらいのところに持ってゆく。
そしてやおら、棒を前後にゆすり、まるでサバの頭が生きているように舞わせる。
しばらくすると、足を緩やかに動かして、タコが岩穴から出てくる。
サッと、タコがこの頭に抱き付く。
その瞬間、叔父はすばやくタコをひっかけ、海から引っこ抜く。
これが、ここ島根県での磯場のタコ捕りのやり方である。

何匹かタコを生け捕りにしている叔父の少し離れたところで、私は、ボベ貝採りに専念する。
この貝は、カサガイ科の巻貝、ヨメガサ貝のことであり、ボベはこの地方の方言である。
貝殻は、平べったくて、ヴェスーヴィオ山のように山形をしていて、頭頂部から薄らと幾本か筋が入っている。色は薄い深緑色で、斑点状のような模様があるものもある。

これをバールやマイナスドライバーで岩からはがし取る。
物の五分で両手いっぱい分採れてしまう。
昼には叔母の作った握り飯で済まして、次に釣りに移る。
そうこうしているともう夕方である。

網に大量のタコとボベを入れて帰宅する。
ボベを水で洗い、鍋に入れて茹でる。
通人は、この茹で汁を使っておコメを炊く。私は、この汁が苦手である。
あまりにも、磯の香りが強いからだ。

「食いしん坊バンザイ!」に出演した芸能人が収録中に、旨いと言って笑顔だったのが、撮影が終わるや否や、その場でこのボベ飯を吐き出して苦しんでいたそうである。
それだけ癖のあるものだから、海人以外は広まらなかった。
「ケンンミンショー」で取り上げられ少し有名にはなったけれど・・・・。

磯の香りが強いが、貝に特別な味はなく、蒲鉾に歯ごたえのあるような噛みごたえがある。貝殻から外すと、身は小さな棘が二つあるような触角が生え、茹で豆のようにコロッとしていて、背がオリーブ色、腹が黄土色をしている。
こいつのできたては美味しい。
私が社会人になって家に行くと、決まって、これを採りにゆき、ボベ飯となる。

「かぁちゃんと似て、こいつが好きだのーお前は・・・」

というのが叔父の口癖である。

私にとっては、自分の中に海人の血が流れている証拠だと、ボベのことを思い出すと確認したりする。
海人の変わった料理、他にもありますか?
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-23 15:44 | 木陰のランプ

創造的自己同一性

「創造的自己同一性」(Creative Self-Identity)

少し長いお話ですが、お付き合いください。

-los、何々ロスという言い方があります。ペットロスなんてありますね。「喪失」を意味します。

下田には地元っ子以外の生まれ故郷が外にある人がたくさん住んでいます。
そういう人が、話の中で、「僕は部外者だけど」とか「よそもんだけど」という言葉を使います。
よそに自分の故郷があり、その故郷の人間だというのならそれでいいのですが、下田に住み、下田の人間として生きているのなら、これは、「故郷ロス」(「故郷喪失」)の事態にあるのではないでしょうか。

下田に住んでいて、下田の人間だと思っている人から、この言葉を聞くと、(誤解を恐れず申しますが)どうしても下田からも、生まれ故郷からも、話をはぐらかして、言い逃れして、話をしているように思えてならないのです。

私は、どちらも肯定する、そうした創造されるアイデンティティーを提案します。

生まれ故郷を否定するのではなく、また下田人として外部でもなく、このふたつともが自分であるということなのです。これは地元民と呼ばれている言葉とは違う新しい考え方になるかもしれません。故郷を異にするが、地元人と同じように生活し、感じ、思い、悩み、失望し、喜び、悲しみ、笑い、考える。これをして、まだ下田人ではないというのでしょうか?同じなのです。異質の部分を人間はみな抱えています。それが人間です。でも一人の人間であります。

逆に、地元民と呼んでいる人はどうでしょうか。地元のことは地元の人間しかわからないのでしょうか?
そう思いません。それは、経験、生まれてこれまで同じ場所で生活し、そこから生まれた経験の相違があるだけなのです。そう考えると、心は、閉じた自分と開いた自分がいるはずです。閉じた自分は郷土の誇りからご近所づきあいまである中での、その土地の人間しかわからないものです。そして、開いた自分というのは、生活を共にするという意識と実際に生きなければならない現実に即して存在する自分です。
でもこの二つとも、一個の自分です。

ここで、カギとなるのは、やはり「下田人」ということになるでしょう。「下田の人間」「下田っ子」「下田に住む人間」というよく使う言葉です。この言葉を、どうでしょう、この際、意識的に使ってみるのは。外であれ、内であれ。何か、共感できることがあるだけでも、もうこういえる資格があるんじゃないでしょうか・・・・下田に住んでいるのだから。

私の言っていることは、何も新しい発想ではありません。
地球上には、このある種の積極的な自己同一性の構築を日常的に行っているところは沢山あります。
人種のるつぼといわれる、人種問題を抱えるアメリカ合衆国の各都市、移民問題に頭を悩まし極右勢力が台頭するヨーロッパ、なくならない部族間抗争のあるアフリカ、政治体制が各都市に行き渡り硬直化する中国の現実などなど、あれがあり、これがあります。

大きな話になり恐縮しますが。根っこは同じようなものなのだと思います。
「住めば都」といいますが、これは先人がこの「引き裂かれた自己」、「硬直した自己」のことを暗に表したことなのかもしれません。

まぁー、いっぱいやりましょうやー、酒が飲めなくても、まぁー、いっちょやりましょうやー、とお互い言い合えるのが自然体でありたいですね。

新しい下田なんて、そんな壮大なものでなくていいのでは?
何かちょっとした意識の変化なのかもしれません。
それをたくさん見つけませんか?

ぶつかり、悩み、時には落ち込み、怒る。それは当然あります。
でも住んでいるのは下田です。それだけは、確かなことです。
ということは、対立があることも、これまた下田人であるから起こるのだと思います。

さしずめ、ここでは結論として、「下田人づくり」ということにしておきましょう。
少しずつです。
ぼちぼちやりましょう。
というか、今までどおりでいいです。でもこのことは忘れないでほしいのです。
下田に住んでいるのですから。

ということで、欲張りですが、私は複数の故郷が持ちたいと思っています。
でも下田人です。そしてひとりの人間です。

ここまで読んでいただきありがとうございました。本当に感謝します。

11月で、ここ下田に引っ越してきて、1年になります。まだ新米です。叱咤激励よろしくです・・・。

「毒蛇は急がない」

野人

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by yajingayuku | 2014-10-23 07:00 | 木陰のランプ

夏の海だというのに、日本海の海は、エメラルドグリーンではなく、深い緑色をしている。
小さな漁港に通じる道を歩いていると、強烈な磯のにおいが鼻をつく。
両親が不仲になり、母方の郷里の島根県浜田市の唐鐘という漁村に引っ越して、1か月余りがたった真夏のことである。

白い砂地の道を歩いていると、民宿先の庭には木棚にワカメが干してある。1か月前には、気にも留めなかったが、ここのワカメがとても美味しいのがわかると、この棚のやつを横目で見て通ることが多くなった。今日はどれぐらい乾燥しただろうか、明日ならいいのか、といいころ合いになるのを待ちわびた。ある日、棚の前で眺めていると、民宿の玄関からお爺さんが出てきて、「よかったら、少しもっていきんさい」と声をかけてくれた。

「いいのん?でも・・・」

少し気が引けて突っ立っていると、お爺さんが、納屋から、ワカメの切れ端を袋に詰めて手渡してくれた。私が、叔父の所に来ているというと、あ~あそこの子かね、と満面の笑みになった。

嬉しくてたまらなかった。京都の中学校にも慣れだしたときに突然引越しすることになり、少し引っ込み思案になっていた私に、ワカメの味が、日本海の小さな漁村の慎ましやかな楽しみを提供してくれたのである。
この日の夕餉は、当然ワカメ尽くしである。酢の物、ジャガイモとの煮物、味噌汁、ワカメごはん、ワカメの卵焼き。母と妹と私、三人が小さな円卓で何かに耐えながらも、夏の夜の食卓に笑顔で向っている。蚊取り線香の煙が私の背後にたなびき、扇風機が首を振ってカタカタ音を立ててその煙の臭いをまき散らす。

浜田のワカメを食べているので、市販のワカメの類を食べるのは苦々しい思いである。あんな旨いものをもう一度といつも思うが、彼の地でも地元っ子でさえワカメの値段が高くて昔ほど頻繁に口に上らなくなったそうである。悲しい話である。

このワカメというのは、当然塩辛く、そのままでは食べにくいが、これをおむすびに巻いて、フガフガいってかぶり付くのがよろしいのである。お米には塩味をつけずに食べると、旨味とともに塩味がサッと純白のお米の味に広がる。ワカメとお米をかみしめていると、磯の香りが鼻の中いっぱいに広がってくる。これで十分である。

板状に干されたワカメをちぎりとり、おむすびに巻く。たったそれだけで、極上の味覚に出会える。

あ~あ、もう一度あのワカメが食べたい。
もしかすると、あの味はあの時にしか出会えなかったものかもしれない。
旨味のある塩味は何もワカメとお米の味だけではなかったのだろう。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-22 15:51 | 木陰のランプ

燃える

「ブォー、ブォー」

南国の夜の闇を一瞬輝かせる、炎。
燃焼剤を口に含み、勢いよく松明に向けて吹き付ける。
「ブォー」とサラマンダ―が奇声の後に口から炎をふき上げ、舌を出している紋章をどこかで見たように思うが、これを人間がやるのだから迫力は満点である。
ハワイのフラのショーの合間にたくましい体の兄ちゃんたちが、台地を踏み鳴らしたダンスをした後のことであった。

炎のイメージは破壊と創造である。破壊的なイメージは物を焼き尽くすそのパワーであるが、炎はその焼け跡の中から生命が誕生するイメージでもある。
フェニックス。不死鳥。自己の炎で焼かれてしまい死ぬが、その焼け跡から子供が生まれる。あるいは新しい自己に生まれ変わる。
鳳凰やフェニックスは吉兆の生き物である。そして、想像上の生き物だ。
炎は想像の翼を与える。その翼は鳥の姿態をとって現われる。

何もこんな激しいイメージだけが炎の持つ顔ではない。
画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのあの闇夜に仄かに輝く蝋燭の炎に手をかざし、皮膚を通過してくる美しい明りも、炎の「淡い」の色調を表現している。

蝋燭に炎が立ち、形をめまぐるしく変えて踊って、影と光が揺らめく暗闇の中で、お能が繰り広げられる。
この揺れから、あの世とこの世の間の揺れ、虚構と現実の間の揺れを感じ取った人もいるかもしれない。
この揺れは、お能だけではなく、太古の洞窟の中、中世の城の中、炭鉱の中にあって、あらゆる闇と結びついていたはずである。

この揺れだけが炎の持つイメージではない。
「冷たい炎」という言葉がある。メタンガスを含んだ氷は確かに「冷たい炎」かもしれないが、炎自体は熱いものだ、この場合。
そうではなく、詩文ではないが、熱くない炎のことである。
熱くない炎は、青白い色をしているとされている。赤色ではないのである。
赤い炎のように揺らめくが、光はどうみても明りを発していないように見える。
むしろこれは、青い影を産むのではないだろうか?

ビール1本で、ほろ酔いになり、卓上ランプの光を蝋燭の炎に模して、ボーっとしていたら、こんな文章ができてしまった。これでは、燃える魂でコンピューターのキーボードが発火してしまう文章は書けまい。
想像には酒がいるが、創造には酒はご法度である。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-21 20:53 | 木陰のランプ

なりきる

「かぶり続けていると似合うようになるものですよ」

どうしても昔から帽子というものが嫌だった。
幼稚園生の時には、お出かけするのに父が私に帽子をかぶらせようとするのだが、いつも嫌がっていた。

もう一つこの時の嫌な思い出がある。
朝起きて私の髪の毛に寝癖がつくと、父が寄ってきて、自分の唾を指につけて、私の髪の毛に擦り付けるのだった。父は、酔っていて酒臭かったので当然唾液も悪臭だった。私は当然泣きじゃくり、人の口臭が気になる子供になってしまった。
こんな状態で、帽子をかぶるものだから、においが帽子にも移ってしまう。

それから私は帽子をあまりかぶらなかった。
小学校へ行くときには野球帽をかぶったが、別に気にするものではなかった。
それが、イタリア留学から帰ってきて、冬場に、ニット帽をかぶったら、これが暖かく快適なので気に入ってしまった。
鏡に映るニット帽の私は、どこか不自然でまだ帽子が体の一部にはなっておらず、抵抗感を感じていた。

イタリアで出会った日本人の友人に言われた上述の言葉で、帽子にチャレンジする心がムラムラと湧いたのである。
それからというもの、外出時には、帽子がないと落ち着かないまでになった。
似合っているかどうか?・・・・・?

持続は存在に形を与える。
何か一つのことを続けて行うと、それがそのひとの一部になる。

金持ちになると毎日100回唱えると本当に金持ちになるかも・・・・眉唾ですが・・・・。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-20 15:42 | 木陰のランプ

靴欲

― 馬鹿の大足 ―
靴のサイズは29センチである。

「おまえ、なんてやつや、大きな足しよってからに」

京都の友達と会って、一杯飲み屋でひっかけ、帰り際に、靴を履こうとすると、後ろからいつもの声がする。
こう言われて、私は、昔から嫌な思いはない。むしろ、嬉しい。関西人の特有の親しみがこもっているからである。

故マルコス大統領夫人、イメルダの靴の収集が話題になったことがあるが、その保管庫の映像を見て、さほど驚かなかった。夫人とはいえ、権力と金銭を独占し、国運を担った影には膨大な靴が残されたわけだ。
私が同じように独裁的な人間と化したら、靴は第一に独占するだろう。
これは、靴への強い独占欲があるからであり、それは29センチというサイズの人間が、思い通りの靴を手に入れることができない不満から来ている。

「また、運動靴やないか~」

青年野人は、靴売り場で、イライラするのである。こんなに靴があるのに、俺にはたった1種類の靴しかない。これは不平等だ。俺が独裁者だったら、29センチの靴で世界を満たすのに!!!

妄想が膨らむ。靴のサイズで人種ならぬ靴種というカテゴリーを作り、29センチ以上の人間を優等靴種、28センチ以下の人間を2等靴種として世界の人間を分割する。20歳以上を有効年齢にする。

時代は変わった。サイズも。ネットを見れば、私好みの29センチは色とりどりである。
それでも物欲は収まらない。
この年齢でも、靴だけは沢山ほしいと思う。若い時の暗い影が差す。
帽子もほしい。眼鏡もほしい。パイプもほしい。

これで私もいい坊主になれるかもしれない。
潜在的な煩悩を抱え、人々に靴のありがたさを説く。

「靴は万人のために。万人の靴の、万人の靴による、万人の靴のための政治」
29センチの靴種制度の廃止。靴サイズの選択の自由。

たかが靴、されど靴。
これは豊かさの象徴なのでしょうか?

「靴の哲学」
こんなのを考えても面白いかも?
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人

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by yajingayuku | 2014-10-19 21:08 | 木陰のランプ