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書けん!!!

人間である、物書きにも癖というものがある。
文章の長短から文章の勢いまで、様々だ。
日々の作業で、どうしても書けないということも起こってくる。
これは癖というよりも物書きの運命みたいなものだ。
筆が止まる、ということが起こるのである。
かつて、開高健が、このような時に釣りの師匠である井伏鱒二さんに相談した。
師匠は、彼に、「あいうえお」、「いろはにほへと」、何でもいいから書きなさい、というようなことを彼に伝えた。
師匠の言わんとするところは最近よく私には分かる。
物書きは自分の行動をやめたいと思う反面、筆を執らないと不安を抱く生き物でもある。
筆に寄りかかって生きるものは、所詮そこからは抜け出せない。
開高は、常日頃から人に書けない書けないともらしていたそうだが、その書けないということをネタに文章を書いたのだから、本人が苦し紛れといえども文章を書くという筋は通っているのである。
こんな柔軟な発想がほしいものである。
今夜は、アパートの近くで、もう直始まるであろう夏祭りのお囃子の音色がよく鳴り響いている。
この何気ない光景と文章を書くという行為が同時に繰り広げられている。
この音色をどう言葉にするか・・・う~ん、これまた書けない。
開高健「かいこうけん」、「かけたかけん」(「書けたか健!!!」)・・・「書けん」!
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-31 20:57 | 木陰のランプ

苦味

夏の盛りに、キンキンに冷えたかき氷はこの上なく涼をもたらしてくれる。
シロップの味も、濃淡を味わえる。
甘味は舌を一色に支配する。それにはどんなに舌の測鉛をおろしてもたどり着くものではない。
和三盆、黒糖、チョコレートと甘味にはいろんな甘みがあるが、舌は甘みから解放されない。
これに対して、苦味や渋みはこうした味覚の同化を拒む、抵抗が働く。
どうしても抵抗が働くから、ほかの味を必要とする。
ここに、味覚の複雑さが出てくる。
近頃、甘味にも塩味や酸味が加えられて複雑な味が受け入れられているが、これは敢えて抵抗を作り出して複雑さを出しているのである。
味は、一色だけではない。
記憶とともに、極めて個人的なものにも属している。
そのために、味には好き嫌いがダイレクトに反映される。
酢豚に、パイナップルが入っているのを嫌がる人が多い。
これもその例に漏れない。
日本人が、海外に行くとこの手の味があふれている。そこにはその人間の生活した風土が付いてくるものだ。
海外の人が日本へ来るとこの逆のことが起こる。何でも醤油の味がしてしまう。
何度も言うが、味覚は、一音、一香ではない。
味覚には、思考と想像力を伴う複雑な感覚でもあるのである。
こうして、葉巻をくゆらせると、苦味だけが先行する。
それでも、気分を落ちつかせるスパイスがある。恐らくそれは、葉っぱの化学的な成分だけではなく、見えない、五感では判別の付かない第六、第七の感覚、フィーリングという得体の知れないがよく感じ取れるものがあるからであろう。
紫煙はシックスセンスをもたらすものかもしれない。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-30 22:35 | 木陰のランプ

栞(しおり)

中学生時代に、SFなんかの書物に懲りだして、本の魅力にとりつかれた。
その時からだろうか、本の数とともに、栞の数も増えていった。
実のところ、栞には隠れた魅力というものがあると思っている。
出版社が知恵を絞って栞まで自社の本の宣伝をしているのに嫌気がさしたことがあるが、これも本を知る手がかりになっていたことは確かである。
狭い空間に、情報は隠れていた。
時として、美しいアルプスの山々が刷り込まれたり、先人の名句というのもこれで知った。
某社の何気ないモデルが木漏れ日の中で微笑んでいる姿に、ハッとなって心が和んだこともある。
栞は、ひとつの目印である。
この機能は永遠に変わらない。
次を示してくれる。
あるいは、大切なもののありかを示している。
この機能は、現在ではポスト・イットがもっているが、味気ないったらありゃしない。
栞は本に寄り添って生きている。
灯台は栞と似ているように思う。
船舶の航行を安全に導く。
栞は書物の大海に一輪投げ込まれる花束だ。
私はこれからも栞とともに生きていきたい。人がいる限り本に挟まれた栞は次の人が受け継ぐ。
ささやかな先人からのプレゼントだ。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-30 17:53 | 木陰のランプ

名前

その昔、水泳のコーチをしていたころ、教え子に、「宙」と書いて「そら」と呼ぶ子がいた。宇宙の宙なのだろが、最初はどう呼ぶのか戸惑った。
近頃は、当て字の名前が多いが、覚えるほうは大変である。
鯵の開きというものがある。開かずに1匹のは「丸(まる)」であり、開いたのは「開(かい)」だ。
この姿から、昔は男性の性器と女性の性器を象徴する呼び名だった。
そこで、わが敬愛する開高健が登場する。
開高という名前は日本語では珍しい名前のようである。
「開(かい)」が「高(こう)」で高く、「健(たけし)」つまり「健やか」である。あそこがいいという意味か・・・。
こんなことを開高本人が開陳している。
私の場合、本名は、岩崎努であり、この「努」というのは、分解すると、「女」の「又」に「力」で、これまた下ネタの名前である。
いつぞや、イタリア人が私の名前の由来を聞いてきたことがあったので、このことを説明すると、たいそう気に入ったらしく、何杯か乾杯する羽目となった。
イタリア語では、名前は聖人や君主のものばかりで、当のイタリア人の中にはこんなお遊びみたいな名前に憧れるものがあるようだ。
でも、名は必ずしも体をあらわさない。私の場合もしかりである。
開高も、私も、自分の名前を好きなように解釈しているが、名前について冗談が言えるなら至極幸福なことと思う。酒の1杯か2杯にはありつけるかもしれぬ・・・。
名付け親に感謝する・・・。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-29 20:05 | 木陰のランプ

大学生時代、四谷の裏町に住んでいた。そこは意外に坂の多い、起伏に富んだところだった。新宿通りを走っていて、JRの線路がもぐりん込んでいることを考えると、相当の高低差がある。私の住んでいたアパートは、裏の高台の服部半蔵が眠る墓所の下で、その脇を坂が通っている。確か、「豆腐坂」と呼ばれていたように思う。坂の下は谷間のようになっていて底を1本の道路が走っていた。「丸正」のスーパー、天婦羅屋、銭湯が直ぐ近くにあり、隠れた小さな商店街のような風情がある。
京都府城陽市の山に家があったことを除いて、京都市内も滋賀県草津市にも生活圏に坂はなかった。
城陽の自宅は、坂だらけ。両親の不和やいじめで、来る日も来る日も坂を昇ったり降りたりしていると、心に階段がついたようになる。日向と影が鮮明になってくる。
そんな折、小学校の保護者用の連絡誌の文集に私の詩が載った。
このとき初めて、「人生」という言葉を、本当の意味も分からず、直感的に使ったことを思い出す。
それから10年後、坂のある四谷に住み、大学で哲学の講読でアルベルト・カミュと出会った。
彼の文章で、シーシュポスの物語が出てくる。
シーシュポスは、神でさえ禁じられている人の死に関して禁忌を犯したため、ゼウスから苦行を強いられる。
山の頂に向けて岩を押して転がして登るのだが、頂上に着くと、岩が下に落ちて行き、また同じことを繰り返さなくてはならない。これを永劫の罰として与えられたのである。
坂を介して、少年のときの苦悩と文集、そしてシーシュポスが重なった。
重い話で恐縮だが、坂というとどうしてもこうしたイメージが明滅するのである。
かつて、ウルトラセブンの最終回で、諸星団が、アンヌ隊員に向かっていった言葉も、思い出した。
「人生とは、血を吐きながらするマラソンだ」。
今は、私は、穏やかで、心理的切迫感が弱いが、こういうイメージを自分は持っていることを肝に銘じておかねば・・・。バランスです・・・。
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-28 20:31 | 木陰のランプ

包装紙

我々はあまたの包装紙に囲まれていて、日々これを捨てている。
そのデザインや形もさまざまだが、私はそんな脇役が好きである。
夏の京都は耐え難いほど暑く、のどを通る空気さえ熱くなってくる。
そんな時、どこからかカルピスの詰め合わせなどがお中元に送られてくる。
紅顔の微笑年の私は、白地に群青色の飛び散った水玉の包装紙を瓶の首から剥き散らすのが好きだった。
トレードマークの帽子をかぶった黒い顔をした女性を見つけるとあの夏の日がよみがえってくる。
カルピスは薄味が好きだ。牛乳に入れて飲むのも好きだった。
オレンジのカルピスなんかもあったのを思い出す。
高島屋、大丸、三越。デパートの包装紙も懐かしい。
包装紙はデザイン界のサブカルチャーである。
有用性はもちろんあるが、それは中身を覆い隠すときに大いに意味を持ってくる。
贈り物のワクワク感はこれなくしてははじまらない。
ある時、この包装紙をブックカバーにすることを思いつき、いろんな書物を包装したことがあった。
何気ない、紙ではあるが、私には美術品のような親近感を感じさせるものだ。
大人になって女性の衣服を剥ぎ取るときの高揚感は、まさにこの包装紙の剥ぎ取るワクワク感に通じるものがあるのではないだろうか?

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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-27 21:41 | 木陰のランプ

妄想のはじまり

前にも書いたが、記憶をよみがえらせる、香りや音・音楽というものがある。
今思い返すと、幼いときの経験が今の自分を形成していることが分かる。
私はいじめられっ子で、社交的というよりは、内向的な子供だった。
親の不仲やいじめで、深夜聞くラジオは心のよりどころだった。
ラジオのチューニングで、ザッーという音とともに聞こえる外国語や雑音は、このとき流行っていたBCLのことを思い出させる。海外へ行くことを夢見たものである。
いま少し、ラジオのことにかかわっているが、放送する大変さがよく分かるようになった。
これも何かの縁である。
このご時勢は、もうコンピュータでつながる。
この時代の子供たちはどんな空想で自分たちの夢を描くのだろうか?
瞬時に、地球のあらゆるところの情報が一目で分かる世界。
私が妄想に次ぐ妄想の連続で、現在に至ったが、今はその妄想に隙間があるだろうか。
この隙間が大きければ大きいほど、人間は想像力をめぐらせるのだが・・・。
電波は、今も息づいている。
今の世のあり方で・・・。

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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-26 19:14 | 木陰のランプ

一輪の花のごとく!!!

頭の上をコガネムシが飛び回り、はっと思ったときにそれが掌の上に落ちて着想を得るということがしばしばあることである。こんなことを古代ギリシアの作家、アリストファネスがいっている。
クリエーティブなことをしている人間は日頃の外見は、怪しい人間に思われがちだ。ボーっとして、窓の外を眺めていたり、一点を見つめていたり、時にはパイプをふかせて日々すごすということが往々にしてあることである。そんなことがあるものだから、人は彼らに怠け者のレッテルを張りたがる。これは至極もっともなことであるが、悶々と暮らす当の本人たちは不安でならないのがまた現実である。
蟻とキリギリスの話はよく知られているが、世の人の性向を2種類に分けるのでは、こうした人間は足りないように思う。彼らは、一輪の花を咲かせたり、実をつける植物の類であるのではあるまいか。じっと耐え忍んで何かを待つひ弱な植物。
また今日も、何かの物音を聴き取ろうとする一本のマイクとなり窓の外を眺めることとなるであろう・・・。

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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人
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by yajingayuku | 2014-07-26 04:31 | 木陰のランプ

夜の再会

あれからどれくらいクラッシック音楽を聴かなくなっただろうか。
もう10年以上になる。

先日、NHKラジオを聴いていると、フォーレの「弦楽四重奏曲」に偶然にも出会ってしまった。
解説者は魂が抜けるような曲と評したが、私には魂が、いや何かが私の中にやってきたのを感じた。
この経験は初めてのことである。

イタリアでは、中世絵画の中で、聖女が神を感じ取りエクスタシーに達する姿をよく目にするが、このときの感覚はそこまで極端ではないにしても、彼女たちの感覚がわかるような気がした。

そして、久しぶりに、家飲み。友が来る。
これも、幸せな夜の再会である。



合掌。

Bayartai!

「毒蛇は急がない」

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by yajingayuku | 2014-07-23 22:03 | 野人日記

再開

いつのころからか、少しずつ歩めるようになった。
友の死。
私の中に彼らは生きている。

また、日々をつづることにしよう。

早朝の清々しさが気分を落ち着かせる。

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窓から見る、寝姿山の蝉はまだ鳴いていない。

とろろそばでもた~べよっと。

Bayartai!

「毒蛇は急がない」

野人
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by yajingayuku | 2014-07-23 05:46 | 木陰のランプ