カテゴリ:旅( 66 )

イタリア紀行 (65)

大英博物館に通って、ついでに以前からみたいと思っていたW.M.Jターナーの絵を「テイト・ギャラリー」で触れることとなった。

この年は、例年になくロンドンが夏の太陽を浴びていた。
テイムズの岸辺を歩きながら、瀟洒なギャラリーの中に入った。
時間が早かったのか開館直前で、人がまばらで鑑賞にはうってつけだった。

有名な「ロンドンの大火」や機関車の絵を過ぎ、神話をモティーフにしたものを数点みる。
ギリシア・ローマの神話を主題にして、あの鬱蒼とした木々の中に、ポツンと神話の主人公が描かれている。遠く離れたアジアの片隅からやってきた人間からすると、何か物足りなさを感じるが、風景の手腕は見事である。ターナーの色はそれほど多色ではなく、それでいて鑑賞者には想像をたくましくさせるものがある。

次の日には、案内のN君に従って、ロンドン塔の博物館を訪れる。
古代の遺構や遺物が層状に表れ、興味を惹く。

古本屋外をぶらつき、次の日となる。
この日は、ロイアル・アルバート・ホールにて「プロムス」の定演を聴く事になっていた。
その前に、ホールの近くで、青色のバスタオルを購入する。
演目には、「ラプソディー・イン・ブルー」があった。ホールで聴くのは初めてで、興奮する。

帰りに、アラブ料理を食す。
鶏肉料理は微かに記憶するものの、何を食べたか思い出せない。
このとき初めて、ロンドンの2階建てバスに乗った。

ホテルに帰ると、ドロのように寝入った。
明日は旅立ちである。
また、ウンブリアの青空に帰る事になる。

ロンドン。この集合体。
人が集まる街の気配を十分味わうことができた。
さらば、ロンドン。

野人
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by yajingayuku | 2011-11-06 20:13 |

イタリア紀行 (64)

ロンドンの大英博物館の一角にある細い通路から、照明を落とした展示室に入ると、その空間は、墳墓の墓室のひとつのように、幾つもの石棺に照明が照らされた僅かな光で、壁に音が吸収されてゆく静かな世界だった。

エジプトのように、巨大な、どっしりと重量感のある石の塊そのままのような剛直さはないが、人の等身大の大きさの石棺は、過度の装飾類は全て取り除かれ、そのかわり蓋には、被葬者の頭部に当たる上にくるように、頭部のトルソーがデスマスクのように飾られている。

石棺の蓋に装飾されるものは、時代と地域・民族によりさまざまだが、人物像を、しかもトルソーを飾るのは、フェニキアの石棺の大きな特徴である。地中海を「我らの海」として、活動していた海の民フェニキア人は、この石棺の特徴ある形状を広めた。
イタリアの名だたる石棺もこの石棺の影響を受けているとされている。

何か特別な地下の研究室のような、何処にでもあるような2本の蛍光灯が白々しく輝いている、部屋に入ると、所狭しと遺物が氾濫していた。古代ローマ時代の彫像類である。
ある専門的な研究では、ローマ時代の幼児の埋葬に関するものが幾つかあり、幼児を埋葬した、恐らく当時では富裕層の出自に属するような石棺の装飾には、特に、石棺の正面を飾る側面に、被葬者が幼児であることを示すようなモチーフが散りばめられている。そこに登場するキューピッドとの関係がとても気になった。

部屋の壁沿いには、やはり何かの構造物の一部を飾っていたレリーフが立てかけられていて、純白ではなく、汚れたように灰色をした、大理石の人物像が幾つか彫られている。
目を引くものは、男性像の左手が着ている衣服で隠されていることである。解説によれば、これは明らかに死者である人物を表現している。

「隠す」こと、「隠す仕草」は、太古から死を意味する何らかの共通した人間の表象表現なのだろう。そこには、単なる印としての意味だけではなく、死の本質、「なくなる」とうことと深い結びつきがあるように感ずる。

別の壁に、小さなパネルがある。「ディオニュッソスの帰還」として広く知られている、神話をモチーフにしたものだ。しかし、特定のこの神に関する神話の一場面ではなく、この神への信仰を集めたバッカナリア(密儀に関するもの、ドンチャン騒ぎも含めて)が描かれている。髭を生やし、杖を持つ神に当たる人物が、家の中で寝ていて、今物音で飛び起きた人物の方へ、近づかんとしている。

ほとんど、脳みその奥底に沈んでしまい、紡ぎ出すことが出来ないが、こうした展示室の「臭い」とうものを、時々印象的なもののひとつとして経験することがある。
このローマ時代の部屋は、明らかに、あの石の臭いがある。これは独特なもので、大理石の遺物群が多いと特にこれが強い。土の匂いやかび臭さでもなく、それでいて何か今までに嗅いだことのないような匂いでもない。鼻の中を通ると、大理石の表面の光沢のように、冷たさをともなったものとしか今のところ表現しようがないものである。

脳裏に焼き写した感覚は、日ごとに希薄になる。
今しばらく、その細くたなびく記憶の煙の中を彷徨うこととしたい。

野人
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by yajingayuku | 2011-05-08 01:49 |

イタリア紀行 (63)

粘土の波を見回して、お目当ての、エトルスキの空間に赴く。青銅製品、陶器の類を見て、立て看板のように据え付けられたガラスのケースに目をやる。エトルスキの青銅鏡を丹念に見る。その右端に、私は目を瞠った。これぞ、日本にいたときから何度となく頭に叩きつけられていた、あのカークスの鏡である。

金銅色を全体に放ち、静かに留め金で、厳かにその体が止まっている。表面に、浅黒い刻線が走り、あの懐かしい頭で反復されていた図像が微かに浮かび上がっている。銘文もわずかに覗いている。

イタリアは、中部のボルセーナ湖畔で見つかったこの鏡は長い間放置され、2次大戦の後の研究者の目に留まった。くっきりと、そこにはエトルスキの伝説に伝えられている2人の英雄のエトルスキ語が刻まれ、中央にリュラを持つカークと刻まれた人物が描かれていた。カークというエトルスキの呼称は研究者によるとラテン語でもカークスと言う名前に置き換えられる名前だという。これが立証されてから、この人物像は多くの学者の関心を誘った。ローマの建設に根ざす、エトルスキの伝説が議論された。

この絵は、その後何百年後かに今度は小納骨容器の表面に描かれることになる。何かしらこの人物たちについての記憶が彼らエトルスキの中に沈潜していたようである。それは残る考古学的証左の少なさに比べて根強い菌糸となって人々のない奥にはびこっていたと推察される。

古代の文字に残さない原形質の物語を再構築するのはなかなか骨が折れることである。若干の古代の叙述家の残した記述を援用しながら僅かな銘文と図像でこれを解き明かさねばならない。想像力も必要になってくる。この絶え間ない事実と空想の中を行ったり来たりしながら叙述しなくてはならない。限界は深くて暗くいつまでも漂う。挫けそうになる。

日本の西洋古代史の中核になる政治史や史料分析にの潮流に当然乗れない。歴史からはみ出した残滓を拾い集めるのに当時の私は汲々としていたのである。

遺物を日光や電気の光から守るために照明を落としたエトルスキの遺物のコレクションのの中にいると、人の少なさも手伝って、とても心細い気持ちになる。

あれはタルクィニア出土の石棺だ、これはその被葬者の頭蓋骨を復元した人物の顔だ、この棺は銀製のものだ、と確認しながら自分では何処か別の惑星のものを愛でるように目を漂わせていた。

このひと時の亜空間は私には内部に充実した息吹を満たしたが、それと同時に、それがどうした、という暗いもうひとつの声がささやくのを絶えずきくことになった。

この鏡だけでも・・・。私は不安ながら何かを掬い取ったようである。

野人
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by yajingayuku | 2010-04-10 13:05 |

イタリア紀行 (62)

雲が少しあるが夏の灼熱を発散したロンドンの小道をちょこまか歩いて博物館にのぞむ。白い外壁は夏の日光を反射し、光輝を放っていたが、少し残ったアルコールのせいで入り口でためらった。

今日は、昨日見た部分から内奥に赴くのだが、その入り口で不意打ちを食らった。

「バビロン法典」。この教科書で幾度となく聞かされた現物がある。茶褐色の、少し先が底辺より狭くなっている粘土の塊は、何か異様さをたたえている。あの「目には目を、歯に歯を」という翻訳の英語を追いながら原文をその板に追う。

知られているようにこれはイスラム法の中にも脈々と受け継がれている、復讐法の原型である。サルゴン王が成文化した世界最古の法典である。ガラスに納められた遺物に過ぎないが、ここからあらゆる法の伝統、反発、公正化が生まれた。虐げられ、罵られ、頸を切られ、鞭打たれた人々の法の原型がここにあった。例え、この粘土板の持ち主から返還の要請があっても、イギリスは手放さないであろう。そこには、法を重んじる伝統の根源を有する国には、時代に似つかわしくはないが、伝統を重んじる国の威信が感じられる。

廊下を右に折れると、少し半地下には、アッシュリアの遺物が充満していた。ここで目を奪われたのは、やはり茶褐色をした粘土板である。その表面には、王が英雄と握手している絵が描かれたあった。描くというよりは刻まれていたのだが・・・。最近握手の仕草に凝り固まって追っていくうちに、遭遇した偶然である。これは恐らく私が知りうる限り、世界最古の握手の図像である。それは権力であったが、明らかに握手の持つ起源を物語るのではないかと思われる。

握手の表現は、これを追うと必ずどこかで、それがどうした、という声が聞こえてくる。ある学者はこの表象の研究の最初にこのような半ば挑発的に、半ばくたびれ切ったように呟いているのを思い返した。

私はそれでも頑なに、この主張を拒否した。仕草には何かしらの意味があると・・・。

夥しい遺物に眺めるとくらくらしてくる。いつもそうである。何処の博物館でもある。言い様のない何かの声が聞こえてくる。ざわめきは消えない。

野人
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by yajingayuku | 2010-04-09 14:43 |

イタリア紀行 (61)

また、スコーンか、とトレイをとり膝の上におく。これ程までに砕けるよに脆く、かさついた食べ物が他にあるだろうか。添えてあるミルクをかけてもただべとべとした栄養食そのままのを飲み下すしかなかった。やはりロンドンは夏の煌きの中にあった。蒸暑くとも何かしらの光輝に満ちている。

ホテルのある住宅地の表に陽射を受け輝く中を地下鉄に向かった。

それは、荘厳、壮烈、光輝に満ちたたたずまいを宿していた。その白は、大英帝国の在りし日を忍ばせている。正面入り口右横に半円球の建築途中の建造物を横目に中に入る。左に人のたかる土産物屋を見て中央に出ると、天井の高い空間に誘われる。左右に古代エジプトの石棺が整然と並ぶ。その重厚さには圧倒させられる。身の丈にあわせた石棺といえどもその研ぎ澄まされた石の重厚さには目を瞠るものがある。大きい。重たい。

暫くすると、小学生の集団と思しき歓声を率いる中年の男が近寄ってきて、レクチャーを始めた。これは、何世紀頃の何王朝の石棺だと静かにおとなしく耳を傾けているらしい子供に説いている。その瞳は真摯で純粋そのものが輝きを放っていた。

隣の石棺に話を移しつつ、この一団はしきりに石棺に触れている。どうやら、重要な遺物や脆い遺物は別として、遺物を手で触れることには係員のお咎めはないらしい。

大英とはついているものの遺物は大衆にオープンに開かれているらしい。遺物の収奪の経緯は別として彼らはこれを自分たちの属性としてみじかに感じられるようにしてある。小うるさい日本のことを考えるとこれは驚くべきことである。何千年も前の遺物を肌で感じられるのである。今日、日本でも水族館でも、地方の博物館では物に触れる試みをしているが、ここでは当たり前のように感じさせる。

私は、そっと、石に触れてみた。冷ややかで透明な動きがある。磨きこまれ、光沢を放ち、閉ざされた宝玉のようである。重い。これを作るとなるとどれほどの艱難が会ったかと感慨深い。

これといって臭いが満ちることないホールの中には、それでもしかし、夏のあの輝きを小さな窓から漲っているようにかじられた。分厚い書物を読むよりもここは率直である。ただし、その土埋もれた微かな情景は何もないが・・・。

博物館とは、ある人にとっては、退屈この上ないものである。

それはよく分かっている。それでも惹きつけて止まない何かを私は知ってる。その何かは今でも分からない。ホールの塵ひとつない床を眺めながら、何か、と叫ばずにはいられなかった。

野人
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by yajingayuku | 2010-04-08 14:10 |

イタリア紀行 (60)

朝、蒸暑さで目覚めた。灼熱のとは違う、背中からひたひたと押し寄せる淡い汗である。ベッドから起きて、小さな窓からは、繁茂した植物の声が聞こえる。ロンドンと言う、霧の彼方の夏でも朦朧としたイメージとは違う鬱蒼とした暑さを感じた。部屋は、6畳もない、ベッドで踏み場もない小さな部屋で、ドアの下には朝食のスコーン、日本で馴染みのコーヒーに入れるミルク、パックの牛乳が置かれていた。これがイギリスの朝食かと少し疑って腹をすかせて口にしたが、これがとても硬くてどうしようもない白物だった。うんざりしてホテルを出る。

ロンドンと言うのに快晴である。大英博物館の傍の駅近くのホテルをN君にとってもらったのだが、博物館へは直ぐに行けた。N君と合流して、博物館ではなく、ロンドン市内を回ることにした。テームズ川のあたりを散策して、ロンドン塔近くの博物館に入る。ここでもローマの遺構を見ることが出来た。

昼は、屋台風のフイッシュ&チップスを味わうこととなった。これはと思っていたものなので、感慨深い。何のことはないのだが、やたら飢えていたので、魚のフライが、脂がとても美味しかった。そのまま、市内を案内されたが、とりたてて感慨はなかった。ただ、この市は外国人が非常に多いことだけは肌に感じた。中国人、インド人、東南アジアの人々、アフリカの人々、そして欧米の様々な人々。混在しているのである。

夜は、N君のすすめで中国料理店に入った。こじんまりした店内には、早い時間に関わらず沢山の人が席に着き談笑していた。先ずは、麦酒をたのみ、チャーハンからオーダーした。海外の中国料理を見分けるひとつの方法として私は、チャーハンの出来に重きを置いている。ここのレストランのものは洗練されすぎて、何か物足りない。上品だが、あの臭みのようなものが欠けている。

共同のシャワーで汗を流し、買っておいた名も知れぬウィスキーを口にしてしばし物憂げに自分に浸る。暑い。何の空調もない部屋で、パンツ一枚でロンドンの空気を吸っていた。明日は、単身、大英博物館だ、と気合を入れて、1杯、2杯と杯を重ねた。自動車の音はないが、ちらちら昼間見た町の狂騒を思いながら眠ってしまった。

野人
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by yajingayuku | 2010-04-07 14:33 |

イタリア紀行 (59)

留学生活2年目の夏休み、その頃、ロンドンに留学中のN君もいることもあって思い切ってロンドンに行くことにした。その夏のペルージアも例年のごとく乾燥した暑さだったが、イギリスはもっと涼しいことだろうと思っていた。N君の話もこちらは例年になく快晴の日が多く過しやすいとのことだった。

朝、少し蒸暑さで目覚め、日本製の電気蚊取りの臭いの中目覚め、荷物をザイノ(リュック)に詰め部屋を出た。ミラノまでペンドリーノを使ってイタリアの町を過ぎて行く。ミラノ駅でマルペンサ空港行きの列車に乗り、空港で最後のパスポート確認をやっているとき、もう時間がなくて焦っている中で、係りの丸々太った女性が鋭い眼差しで、滞在許可書お見せるように要求する。「しまった!」あれはもう積み込んだ荷物にあることを思い出した。タイミングよく私を搭乗するよう促す最終とも言える放送がホールいっぱいに聞こえてくる。係りの女性は、怒りを抑えつつ、呆れた風に私に、「出国したら許可書は無効になるわ、分かっているでしょ?」と告げた。おどおどして目があわせられない。「はい」と弱く言うと、手で行って、と合図した。間髪いれず、私は、満員の飛行機のタラップに向かうバスに飛び乗りに行った。中に入りと、乗員は一斉に私の顔を見つめ、「何やっているんだ」という無言の威圧を向けてきた。しょぼしょぼつり革につかまる。

飛行機の上からは、ドーバー海峡はそれ程広くなく感じられる。もう間じかにあの古代ローマ軍が見た白い断崖が感じられた。昼寝をする暇もなくあっけなく、渡ってしまった。あの大英帝国に行くのだ、という何かしらの感慨めいたものが残っていた。荷物を受け取りに、空港の通路を歩いて行くと、審査、というのがあるので訝しげに申請書に目を通し、横の年老いたイギリス紳士の係りに紙を渡して、「何しにきました?」と言うので、「観光に」と言うと、「よろしい」との言葉が返ってきた。パスポートの審査以外に、外国人、特に、欧米人以外はこの外見だけの「調べ」がある。昔、聞いた話では、南アでもアメリカ本土でも、黒人は一定の差別的な「出口と入り口」があったと聞く。それを思うと今のイギリスも自由さはあるのだけれども、この形だけの外来者を再確認する「入り口」には何か私には強烈なこの国の何かを感じてしまった。

皆さん、こんなことぐらいで、と思われるでしょうが、どうも田舎の人間には違和感を覚えて仕方ないのです。パリに行った時、何とすんなり入国できたことか・・・。欧州はひとつになり、何の障壁なく入国できる。よそから入国しても何の違和感もない。数多くのイギリスでの渡航になれた人なら何の違和感なくロンドンに降り立つでしょうが、私の最初のイギリス到着はこういうところで止まっているようだ。

私は、この地に1週間しか滞在しなかった。それもほんの少しの観光とあとは目的である博物館での考古学的遺物の検証であった。ロンドンの人とは交わらず、ただその目的に突っ走っただけで終わった。こいう衝動の背後には、モノだけの世界がある。人は介在しない。私の渡英は人が皆無であった。限られた中で、自分の研究だけを考えそれだけを追求する姿勢は、ある人によっては情けない、と言わしめるものである。この頃の私は、ただものだけに存在していたようである。

願わくば、もう一度、イギリスをじっくり見てみたい心がある。願わくば・・・である・・・。

野人
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by yajingayuku | 2010-04-06 14:19 |

イタリア紀行 (58)

外国人大学があるせいもあって、ペルージアの町には日本人を多く見かける。ペルージアで最初に知り合ったS.H.君などは19歳でイタリアに来ている。若いうちからイタリアを目指してやって来る日本人も多いようだ。2年が経つと、私の周りのも、日本人の仲間が増えだした。

S.K.君は、友達を作る天才であって、向こうではとてもお世話になった。夜な夜な日本人同士が集まってパーティーを催したものである。10名近い仲間が出来、彼らの間では、サッカーの話題で盛り上がっていた。土日には、駅近くのサッカースタジアムに繰り出し、わが町のチームの応援に声を上げたものである。

丁度この年には、日本人の中田英寿選手がこの町にやってきたこともあり、日本人が沢山押し寄せ、地元っ子も親しげに声をかけてくれるようになった。S.K.君は、ワールドカップフランス大会を契機にイタリアにやってきた。彼を中心に、イタリア人の仲間とカルチェット(イタリア版フットサル)をやる日本人が集まり、イタリアではじめての日本人によるカルチェットチームも結成された。これは、当時話題になり、向こうの新聞にも取り上げられた。我々の日本チームは、試合にも本格的に出場したのだが、お察しの通り、本場はそんなに甘くはなかった。勝てなかった。いい試合も中にはあったが、やはりレベルの高さは、地元が群を抜いていた。

彼らは、日本人の代表として、よくイタリア人と交流していたと思う。なかなか行動を起こすのは難しいが、若い力と言うのは何かを生むのだなこれが・・・。3年目を迎えると、仲間達は、散り散りになり、イタリアに残るもの、他の国に行くもの、帰国するものその後の生活を左右する生活をって行くことになる。

出会って暫くして、彼らは、あるイベントに行くというのでその内容を聞くと、何とストリップを観に行くというのである。しかも、市立のスタジアム近くの体育館で催されるらしい。日本では考えられないことだが、イタリアではオープンにやるらしい。私は用事があって参加しなかったが、今から思うと一見すべきだったと後悔している。

このオープンな性に対する産業は、売春でもよくその性格を現している。夜になり、体育館周辺の駐車場には沢山の自動車が列を成す。お目当ては、そこに立ち並ぶ売春婦達を物色するためである。近くを歩くとよく彼女達から声をかけられたものである。私はそこまで手を出す勇気がないので、そそくさとその場を過ぎ去っていったが、外国人の中には触手が動いたものもいたことだろう。

今はどうなっているのだろうか、あの光景は・・・。恐らく変わるまい。男と女がいりのだから・・・。

野人
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by yajingayuku | 2010-02-09 13:33 |

イタリア紀行(57)

ホテルを出て、駅方面に北上した。今回のチヴィタヴェッキア訪問の目的は、「チヴィタヴェッキアのマドンニーナ」を訪れることにあった。これは、近年起こった、教皇庁お墨付きの奇跡のことである。小さな教会で、小さなマリア像が血の涙を流した、というのである。これは見ておかないと旅程に組み込んだ。

広い通りを歩いていると、日本人らしい人物の銅像が建っているのに気づいた。よく見ると、プレートには「支倉常長」と記されている。そうか、ここがスペインからイタリアに入った入り口だったのか・・・。はるばる日本からこんな所まで、時空を超えて出会えるとは・・・。彼の旅は7年間を費やしたそうだが、今から考えると途方に暮れる時間の長さだ。日本聖殉教者教会、支倉常長、どうやらこの町は日本と深い縁で結ばれているようだ。
ローマで描かれた「支倉常長」の肖像画。
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奇跡の像のある教会を求めて歩いていると、一組のイタリア人カップルが声をかけてきた。事情を話すと、車で見に行こうと誘ってくれた。彼らは、来週に結婚するというオアツイカップルで、とても親切だった。ほんの海に近い浜辺の道路を車で走っていると、小魚が子供の背丈以上高さに山鳴りに積み上げられているのが見えた。もったいないというと、イタリア人は小魚は余り好きじゃないんだと答えてくれた。細い林の中の道路に入ると、黒山の人だかりである。今日が土曜日ということもあって、教会に集まっているのだという。幾つものテントが張られ、マリア像やイコンなどが売られており、別のテントでは、教会内部のマリア像を映し出したモニターが置かれていたりした。どうやら、教会に入ることは出来ないらしい。教会の横には、一見するとビニールハウスのような建物が建っている。カップルの話によると、これは温泉施設だという。そうか、思い返すと、「ルルドの泉」も保養施設をそなえていたな~と感慨深かった。奇跡は癒しと結びついている。仕方なく、小さなマリア像をお婆ちゃんの土産に購入してその場を去った。
血を流す「マドンニーナ(マリア小像)」。
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今から、ボーイスカウトのイベントがあるから行かないかと誘われる。ついてゆくと、大きなテントで食事の準備が進んでいる。ボーイスカウトの少年少女が小物を買ってくれというので、仕方なく買ってあげた。今回のイベントは、イタリアに来ているアルゼンチンのコミュニティーが一枚かんでいるものだという。道理で、早くも男女のカップルがタンゴを踊っていると思った、定番なのだろう。何故かその場に場違いな存在の私を踊りに誘ってくれるものがあった。やれやれ、踊りは苦手なのに・・・。とびっきり美味しい牛肉のアルゼンチン風豆スープを食べた。仔牛が丸焼きにされ、その肉を貪るように食べた。これは絶品。野趣溢れた濃厚な肉の味である。満足した。

駅まで車で送ってくれ、彼らと別れた。丁度電車が着たので飛び乗った。ローマに戻るのが惜しく思えた。もう少しのんびりしたかった。しかし旅はまた再開されるだろう・・・何かを求めて・・・。

野人
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by yajingayuku | 2009-10-22 11:59 |

イタリア紀行(56)

朝早く起きて、タルクィニアの町を散歩して、バスに乗り、トゥスカーニアに向かった。昼前に到着したが、考古学博物館の閉館時間になり、30分もいられなかった。それでも目的の石棺を鑑賞し、画像をコッソリと盗撮してきた。バスの出発まで時間がなく、結局トゥスカーニアには1時間もいられなかった。

バスに乗り、チヴィタヴェッキアに向かう。サルディーニャに向かう船の発着港であり、ローマとの間の鉄道はイタリア最古のものだ。到着すると早速博物館に入る。古城なのか由緒のありそうな内部には、この港に渡来した文物が美しくディスプレイされている。一番印象深いのは、中近東のガラス製品である。

外に出て、次の目的場所がないことに気づく。仕方がないので、海岸沿いを南下する。目の前に、教会らしきものが見えてきた。入り口に、サン・フランチェスコ教会と記されていた。内部は外光が明るく取り入れられ、美しい教会だ。よく見ると、壁画の人物が東洋人だ。説明書きを読むと、日本人の殉教者を悼んで描かれたものらしい。そういえば、この地には日本人がよくやってくると聞いていたがどうやらキリスト教が縁を作っているらしい。
祭壇部分の壁画。
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所謂、「マリア・コン・ジェズー・バンビーノ(赤子のイエスを抱きたる聖母)」である。その日本版。
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殉教者の磔刑の場面。
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思ってもいなかった出会いがあったが、これからどうしようか悩みは続いた。仕方がないので、さらに南下した。すると、ヨットハーバーにたどり着いた。ここらで海を見ながら休憩することにした。防波堤の上で海を眺めていると、今日一食もしていないことにハッとなる。これではいかん、ということで港内のスーパーでパンとハム、チーズと飲料水を購入する。ガイドブックでこの近くのホテルに電話をして部屋の予約を入れる。ホテルまでさらに南下した。行けどもたどり着かない。駅からかれこれ1時間は歩いているが、ホテルらしきものがない。仕方がないので、人家のようなアパートのような建物でホテルの場所を聞くと、ここがそうだ、と即答される。よく見ると外壁に崩れかけた看板が出ていた。チェックインして部屋の中に入ると、広い空間に大きなベッドがひとつ、そうこれだけである。買っておいた食糧を蛇蝎のように貪り食ったら、睡魔が襲ってきた。これで今日はおしまい、もう何もいりません、そういう気持ちになる。それにしてもよく歩いた。放浪は疲れる・・・。

野人
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by yajingayuku | 2009-10-14 20:00 |