琥珀色の時間

「夕陽のガンマン」。この「の」という助詞は、主格でもないし、所有の意味があるのでもなく、形容の意味があるが、どうも文法的に分類できないようである。「夕陽を背にした」とか、「夕陽を浴びた」とか、「夕陽のように燃え上がる情熱を持った」とか、とかく説明がいる。

むしろ、「夕陽」というものがそのように表現の奥深いものであることを物語っているのかもしれない。

黄昏時に、ホテルの止まり木で、ドライマティーニを注文し、一口飲むと、この輝く太陽の光で、体に酒精がまわり、血流が開かれ、地面の土に体を埋める重力感と肩から自分の分身が抜け出るような浮遊感を同時に味わうことになる。

サクラメント川。ゴールドラッシュにわき、濁った流れを作る川面にも黄昏が落ちる。
小太りの中年の東洋人が、まだ到着したばかりだというのに、もう川に体を入れて、一心にルアーを操る。
「シュッ」「ボチャ」と竿と釣り糸が空気を切り裂き、ルアーが川面に風穴を開ける。
投げては引き、投げては引き。この姿は永遠なのだろうか、と彼は思う。
その永遠の光景は、川面を照らす黄昏の琥珀の光だ。
眩しさで、どこにルアーを投げているのか、はたまた自分が何をしているのかわからなくなってくる。

彼は、今日の出来をランプのともる寝室で、黄昏色のウィスキーを味わいながら反芻する。
「西洋の没落」。「カルタゴ帝国の滅亡」。いずれも、燦然と輝いた巨星が、地平線上に落ち行く燃える石に変わったものだ。永遠は甘美を伴い、脆く崩れゆく太陽だ。
「俺は水平線に落ちるのだろうか?」。

夕陽がかくも甘美なのは、輝かしい太陽への憧憬ではなく、夜があるからだ、と彼は直観している。

朝、昼、夜。そしてまた、朝、昼、夜。この循環だけがある。

誕生、生、衰退、死。これもまた繰り返しである。

夕陽は、この繰り返しを暗示する人の心の変化に作用する、一滴のスピリッツである。

「雨の日は黄昏の夢を見て、晴れの日には夜の闇を夢見る」
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「毒蛇は急がない」

Bayartai!

野人


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by yajingayuku | 2014-11-13 19:17 | 木陰のランプ